信州の涼しい高原に住むようになってからは東京の夏の暑さでさえ耐えられなくなり、夏季に東京に出ることはなくなっていた。七月の末に新宿の高層ビルの一室で難民医療日本チームの結団式が行われたのだが、ビルから外に出ると熱気で気分が悪くなった。こんなことで亜熱帯の気候に耐えられるのだろうか。私はしつこいくらい後悔した。香港を経由してタイのバンコクに着いたのだが、乗り換えで香港の空港に降り立ったとき、熱風でめまいを覚えた。さらに南に下って暑い土地に行くのだなと考えると、私は無言のまま青ざめてしまった。夜になって到着したバンコクの空港がまた予想以上に暑かった。不思議なもので、ここまで来てしまうと、あとはどうにでもなれ、と半ばやけっぱちのような気分になっていた。国境地帯で1週間ばかり仕事をすると、いつの間にか暑さに慣れていた。日中は40度。夜でも32、3度という気温で湿気も強かったのだ2という陣容だった。同じ宿舎に寝起きし、ともに酒を飲み、いつしか大きな家族のような雰囲気になっていった。宿舎にはタイ人の料理人や運転手などが10人ばかり同居していたが、はじめはだらけているのではないかと思えた彼らのスローモーな仕事ぶりが、やがて我々にも伝染した。1ヵ月もすると、我々の歩行速度は日本から来たばかりの頃に比べると明らかに半分以下になっていた。カンボジア難民の悲惨な現実を見せつけられる毎日の中で、それでも笑顔を忘れない子供たちの姿は私たちに人間の底力の強さを教えてくれた。難民収容所の中でさえ売春が行われている事実を耳にすると、人間のしたたかさを思い知らされた。家族の一人が病気になると、一家総出で看病にあたる難民たちのひたむきさは、私たち日本人が金と引き替えに置き去りにしてしまった人間として最も大切なものをあらためて想い出させてくれた。毎年夏が来ると、あの亜熱帯の暑さとともに、しぶとく生きていた難民たちの姿を想い出す。